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100年に一度といわれる教育改革の波の、真っ只中にいるのが私たちです。幼稚園指導要領が改訂となり、かつ幼児教育に関係する大きな法律改正もありました。

このままではいけない、と国民もしくは人類が気付いた、ということかもしれません。何に気付いたかといえば、それは 過去の成功事例にこだわっていられない ということではないでしょうか。もちろん、歴史に生き方を学ぶところはたくさんあります。それを知った上で、さて、自分はどのように生きていけばよいのか、と問うてみれば、結局は自分のことは自分で考え、決めていかねばならない、と気づくことになります。ここ何十年かは、時代の変化があまりにも早く、大人が子供たちのために教育的環境を整えたり、道筋を作ったりすることが追い付かない、というのがその状況ではないでしょうか。インターネットなど、その昔には存在していなかったものが、現在の私たちの日常を大きく支えています。もっと、さかのぼれば、電気がなかった時間が、長く長く続いていました。そのことから見ても、それぞれの時代の教育のありかたは、おのずと異なります。

知らないことを教えてやろう、とする教育は、その昔、成立していたかもしれませんが、現時点では、そうではありません。もし、そうだとしたら、膨大な情報量を人間一人の頭の中に蓄えていなくてはなりません。もし、人の日常がその情報量に当てはめるようにして、なされているとしたら、そのページ数は膨大、非現実出来です。幸いなことに、いま私たちが生きている時代は、その膨大なマニュアルを情報として、頭の中に蓄えていなくても、生きていける画期的な方法を身につけつつあります。

考える
それは、「自分で考える」という方法です。場面により、考えることは異なり、根拠となる情報も異なります。自分の居場所によっても違います。それらを勘案して、自分で考えながら、毎日を送る、という方法です。

教科書に書いてある通りに事をしておけば、済んでいくという時代ではありません。その昔、育児書が、たくさん売れたことがありました。それは、「方法を求めていた」のでした。どのように育てるのだろうか、離乳食はいつだろうか、何を習わせればよいのだろうか、ということを書籍に求めたのです。やがて気付きました、そこから子育ての答えは見つからない、と。育児書にあるのは、あくまでも「方法」もしくは「方法に至るきっかけ」です。そこに書かれている通りに、物事を進めれば、子育てができる、とは誰も思わなくなりました。もし書いてある本があるとすれば、そこから自分の方法を導き出すために、試行錯誤し、苦しみ、自分の子どもたちと向き合い、模索する方法を知るききっかけとしてあるものだ、ということに行きつくと思われます。

私たちは、幼児教育施設です。子供たちを「かしこく」することが使命です。かしこく にも多くの定義がありますが、私たちのいう「かしこく」は「考えることのできる子どもにする」ということです。将来、どんなことに出会うかわからない子どもたちに、少しでも自分を信じて、自分で考え、自分で実行することの大切さと、面白さを伝えることができれば、と願っています。園という場所が、その考える子どもの成長の場であってほしいと。

非認知能力
跳び箱が10段飛べることが素晴らしいことなのではなく、10段を飛べるためにはどうしたらよいのか、何を努力したらよいのか、踏切の位置なのか、手の付き方なのか、と思い、悩むことが大切なのだ、と気づいてくれる、園とはその場を作る環境そのものであってほしいと願っています。

乳児
認定こども園は乳児の保育をします。この年齢だからこそ、実施したいきっかけ作りがあります。日々、子どもたちが成長する間、猛烈な勢いで、エンジン全開で働いている場所があります。それは脳です。乳児の頭は体のバランスからすると、とても大きく、立てば不安定でさえあります。なぜなら、今まさに身体を育てるためにまず頭脳が働き始めているからです。また体と相互に通信をしながら、成長をしています。そっと差し伸べた指を、ギュッと握り返す乳児の力は、それを表しています。その力を感じたら、そっと動かして、あるいは引き上げてみましょう。力強く、握り返し、体を浮かして来ます。この瞬間でさえ、乳児は、大きな刺激とともに、大きな成長を遂げた、ということになります。日常は、そんな小さな刺激の連続です。そばにいる、私たち大人がそのことにどれほどに意識をもって接することができるかで、将来の乳児の成長に影響を及ぼすか計り知れません。 この作用を、少しづつ、実現していきます。

園長 水谷秀史