のびのびと育てるということと、知的 関心との関連が良くわからない場合があります。一部の教育者の間でも混同されている場合がある程です。そのことについて、できるかぎりわかりやすく、以下 に説明を試みてみますので、大切なお子様の幼児期の限られた時間を有効に使うために一読いただき、またその感想や、不明な点などをくわな幼稚園へお知らせ いただければ幸いです。
この解説の中に出て来る事例は、話をわかりやすくするために、単純化してあります。実際の生活の中ではもう少しこみ入った形で現れて来ると思われます。ここでは、幼児教育に対する考え方とスタンスを読み取っていただければ幸いです。
子どものしたいようにさせてやればよ い、そうすれば自動的に自律の心が育つ…この誤解を世間に作り出したのにはマスコミにもその責任があるように思われます。子どもを尊重するということと、 子どもの知的関心に応えながら子どもたちをあるべき姿に導いていくという二つのことが、うまく説明されずに、混乱しています。
どこで自己を発揮させ、どこで手を貸してやったらいいのかを、探ります。
のびのび教育をする人は、このとき、「ほんとだね、花が咲いたねえ」といいます。
のびのび教育をする人が共通して行う一つの行動があります。それは肯定です。まず、子どもの言葉を肯定します。こうすると、子どもに自信がつき、さらなる発展を喜ぶ受け皿ができます。
肯定はあくまでも肯定ですので余計なことはいいません。何と受け答えしていいかわからないときは「へえー、○○?」と子どもの言葉をそのままリピートします。
そうすると子どもは自分の思いを受け入れてくれる人がいることを嬉しく思います。
同時に「自分が発見した」という自信を持ちます。
知育が「弊害」と化します。
それは子どもが間違った概念を示した時。
チューリップをみて、「アサガオ」と主張した時、どうしますか。
のびのびと教育をするためには、このとき修正を行ないません。なぜなら、このとき「正しい」事柄を知ることよりも子どもが発見したという喜びを味わうことのほうが百倍も大切だからです。
そ れを「チューリップというのよ」と修正を試みると、子どもの自尊心は傷つけられ、大げさな言い方をすれば、今後、自然の事象や身の回りの変化に遭遇
しても大人に伝えようとしなくなる可能性があります。そして、それ以上の興味や関心が発展を遂げなくなるかもしれません。これが「幼い時期での知育は弊害」と言われた
所以です。
間違いを許すか、許さないかで同じ教材も弊害になったり、有効になったりします。
さて、想像してみてください。チューリップを前にして、大人と子どもが一緒になって
「ふーん、アサガオ」といっている姿を…。これが創造教育の入口です。
そして、ここからは「発展」が可能です。
のびのびと教育をする人は、しかも、子どもの頭脳の柔らかさを知る人はこのとき、刺激を、スパイスを加えます、「あかいね、この花」…と。
子どもは 既に、刺激を受け入れる準備ができているので「あかい」という言葉を初めて聞いたとしても、きっと「あかいね」とリピートしてくれると思われます。この瞬 間、子どもの頭脳は百倍も成長します。まだ「赤い」という概念が何をさすものかはわかりませんが、少なくともそのトーンは心のどこかに留め置いてくれたと思われます。そして、今度同じ言葉をどこかで聞いた時きっと、反応してくれるはずです。
これを繰り返しながら知識は脳の中に残っていきます。
どうぞ、家庭でも試してみてください。1歳から3歳にかけての子どもだと面白いように発展していくはずです。
しかし、おかあさんは「笑顔」と「肯定」と「繰り返し」を忘れないことが大切です。また、母親である以前に「先生」になってしまうと子どもは行き場を失います。
くれぐれも、極端な取り組みはしないのが賢明です。
このようにして体得した能力は、子どもの心の中にあたたかく残っているはずです。子ども自身もその能力を使うのがきっと楽しいはずです。すると、自分で自分の能力をもっと使いたくなります。
これが、「意欲」です。他者からの働きかけではなくて、自らの力で物ごとを認識しようと努めます…いや、努めなくても、興味と関心が気持ちを昂揚させます。「ごはんだよ」と叫ぶ母を尻目にゲームに熱中している時と同じです。
さて、こ んなことをしていれば、自動的に知識量が増えるのなら教材はいりません。が、幼稚園も学校も多くの教材を使っています。それは、日常の生活の刺激作りの補助的材料です。日常の生活の中だけでは追いきれない数々の事象を教材の力を借りて進めます。いわば、場^茶る後からを借りて、人はものを理解します。人は目に見えるものばかりでなく、見えないものも認識できます。教材は、その能力を使います。そして、さらに日常生活を豊かにしようというわけです。
例えばサルの社会ではきっと教材はないと思います。なぜなら、日常の生活のなかですべて遭遇し、体験して行くうちに猿の一生に必要な知識と知恵を体得できるからだと思われます。人が人であり続けるために、人はバーチャルを用います。
例えば、 「あかい」と言う言葉を知っていながら、「赤」と言う色そのものを知らない場合、ある方法による働きかけを行い、その色の持つ同一性等についての考える材 料を提供します。また、見えない物を見るために、迷路の課題を呈します。自分が今通っている所を認識し、さらにどこを目指したら、目的地にたどり着けるかを予測します。予知の能力です。また、先生の提示した物と同じ物を自分の袋の中から取り出すことで評価能力が養われます。
つまり、教材を使って集中力と観察力を呼び覚そうと試みるわけです。
子どもたちは幼いうちから「知識」を欲しがります。子どもの意のままにさせてやろうと言う気持ちから、この知識の欲求までも見逃したくないものです。そこに「放任と自由の違い」という、最も深く理解されるべき課題が あります。子どもが最高学府まで行くか、行かないかは今は問題ではありません。
子どもたちは「知りたくてしかたのない事柄や、そのことについて、い つまでも考えていたいとする時間」があります。それは彼らの「知る権利」かも知れません。
子どもたちが求める「知識」を獲得する機会を与えてやるのは、大 人の役目です。
そして、それを親が実行すると効果的なことがあります。幼児教室でもなく、幼稚園でもなく、親がともに苦しみながら体得した知識は、きっと 大きくなるまで「支え」となるに違いありません。
たとえば、子どもたちの「どうして?」「それは何?」という、疑問に答えてやるのは、紛れもない知育です。
とても有効な知育です。
子どもたちの創造性は、ただ広いだけの砂漠の真ん中にひとりポツンと置かれたときに発揮されるものではありません。支えてくれる愛情とそれに伴う知識の伝達のもとに始めて創造性が力を得ます。それは個性とともに育まれます。
問:ある子どもがひらがなを白い紙に書いていて、右と左が逆の「あ」を書いている時、偶然とおりかかったおかあさまはどんな態度で接しますか。
解釈:字を書いている時は、「吸収」している時ではなく「表現」している時です。能動的に表現している時に、土足で子どもの心の中に入り込むのは失礼です。そっと、見守ってやるのがいいと思われます。そして折を見て、大人が手本を示して見せてやってはどうでしょうか。心を開いて「どう書くの?」とたずねてきたら、その時は一生懸命に教えます。この時は、大人が迷っていてはいけません。子どもが知りたがっている事を細かく教えるのが大人の役割です。たとえ、台所の煮物が吹きこぼれていても。
そうです、「どう書くの?」と心を開いた時…大きなチャンスです。
次に、「表現」ばかりに気をとられて 「吸収」をしようとしない場合です。待っても待っても興味や関心が来ない場合があります。それは、おそらく興味や関心が来ないのではなくて、その兆候を大人が見落としているのだと思います。あるいは大人の思惑の中の興味と関心からずれているのです。
そんな時は、少しのきっかけ作りの方法があります。具体物の力を借りて心を誘います。
たとえば1:
・寝る前に絵本を読む…絵本を読むことで、絵 や文字のおもしろさ、その他たくさんの事を吸収します。眠りにつく前は、表現しようとする姿勢から、受入の姿勢(吸収)になっているはずです。また、おか あさんやおとうさんが読んで聞かせるトーンに子どもたちはうっとりと聞きいってくれるはずです。
上手であるか下手であるかは全く関係ありません。親のへた な本読みにけなげに付き合ってくれるのは、我が子だからです。親であると言う絶対的存在が、子どもの心を釘づけにします。この時期の特権です。
たとえば2:
・親が家計簿をつけたり、メモを取ったりする姿を見せる…親と同じことをしたいとする欲求が、吸収に向かわせます。ペンを持ってみて、その動きの足跡に線が引けることに気がついたら、あとは自らその線の行方を開発していきます。
その後で、文房具店に立ち寄ったら、領収証に興味を示すかも知れません。
そんな場合は、ためらわずに領収書を買って与えてください。大切に、大切に使ってくれるはずです。
この時の絵本や家計簿が「刺激」を発しています。お母さんの行動そのものが教材となることも茶飯事です。お母さんの存在そのものが「教育的刺激」となる訳です。
多くの場合「最高のもの」というと最上級を望んでしまいがちですが、教育の場合は少し違います。最高のものは、バランスの取れたもののことです。かつ、バランスをとろうとする努力のことです。スーパーな能力を持った大天才も社会生活の中で、過ごすことなしには生きていけません。人と話もしなくてはなりません。そう、努力をするわけです。そのプロセスこそが教育そのものであり、社会性育成そのものです。くわな幼稚園ではこれらの刺激を系統的に分類して、さらに次の段階としてバランスということを考えていきます。
偏りある子どもたちの能力を、バランスの取れたものに近づけようとすることで、 子どもたちに大いなる精神生活が輝く場所を得ます。もちろん、うまく行くことばかりではあり ません。悶悶として夜も眠れぬ日々を過ごしながら、子どもたちの動向を探ることもあろうかと思われます。互いの精神生活がぶつかりあい、溶け込みあい しながら、幼児教育は進められるものと解釈します。
ここに書かせていただいたことがらは、実際の幼児の生活を見ながら考察を行なったものではありますが、あくまでも、最終的に頭の中でまとめたものです。それぞれのお子様の様子とはかけはなれて響く部分もあると想像します。不思議に思うことや疑問を持つことがあったら、どうぞ、ご自身の判断を信じてください。
そして、さらに疑問を解き明かしていきたいと思っていただいたら、遠慮なく幼稚園までおたよりをください。
至りませんが、ともに考えさせていただきます。子どもたちの育ちは見事に、一人ひとり異なります。定石は存在しません。
考える時間を持つとき、人は、大人も子ともも成長します。
さて、あるきながら、考えましょうか。
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