人間はいつも、変化のくりかえし。 
          生まれたそのとき、自分はこの路線でいこうときめたわけでもなく、自分をさらけだしているうちに、やがて、壁にあたり、人にあたっているうちに丸くなり、気がついたら、なんだか、窮屈な人間になっていたり…。
          そ
          こで、また人は自己改革を思いつくのですね。
          
          改革に改革を重ねているうちに、また、なんだかよくわからなくなったりして…。 
          
          あるとき、(私事、多謝)あるサークルに属したことがありまして、そのとき18才…何をしても面白い年齢…そこに「先輩」という人がいて、その人達と一緒に房総半島を自転車でひと回りしたのですが、その「先輩」をいつも神様のように思っていました。
          リーダーシップがあり、いつも適確な天候の判断を下し、野宿する場所を選ぶのでした。 それから、一年くらいその仲間と時間を過ごしたのですが、その間にある発見をしました。実はその「先輩」は、普段は実にひょうきんでリーダーシップのかけらも見せない人なのでした。いつも、人の後について「そうだね、そうだね」と物静かに控えめに生きている人なのでした。当時彼は21〜2才だと思われます。
          彼の送る日常と、数人の後輩を引き連れて野宿するリーダーとしての暮らしぶりとのギャップがあまりに大きくて驚愕したのものです。 
          本人が言うには、ひょうきんなのが本来の自分で、リーダーとしての自分はわざと演じているのだとか…。 
          なるほど、演じようとして演じることのできる自分の存在…ずっと、演じきることができるとすれば、それはその人の人格ということになるのでは…。
          
さて、すると、本当の自分はどこにあるのか…。
          なんて、たわけたことをかんがえていて、でた結論…それは、人はいつも変化できるし、それが許されているということ…。
          また、長い時間演じることで演技がその人の人格にもなりうるということ…きっと、そうだ…。 
          でも、そのうちに演じきれない部分があって…「ええい、考えるのが面倒になってきた」…と判断をやめてしまう、そのあたりが、個性ということになるのかもしれません。