子どもの姿を「見守って」とよくいわれます。
巷の本にも書いてあります。
しかし、具体的な方法についての記述を探すのは、専門書の中にも、難しいです。
なぜなら、見守るのは専門的な知識を要するし、技術を伴う必要があるとされているからだと思われます。
それよりなによりケースが膨大です。ケーススタディが追い付かないほどに状況が異なり、それにつれての対応も異なります。
人によってもことなり、その人が誰と関係しているかによってもことなり、さらにその人たちの関係は時間で流れます。
どこから考えを始めたらよいのか、呆然とすることもしばしばです。
そこで、考えました。
こんな方法があります。
以下の状況を想定します。
例
見守りの姿勢から類推すれば、そのまま見ていて、叩き合いになろうと、泣き叫ぼうと、「見ている」ということになります。
が、それは、見守りではなく、放置です。
私たちの行動は、以下です。
●B子ちゃんにむかって「あ、そうか、入ってほしくないんだあ、そうかあ」といいます。
●C子ちゃんには「はいりたいんだね、そうか、はいりたいねえ」といいます。
そして成り行きを把握します。
間違っても、「いれて」と言いましょうね、とか「いいよ」と言うんだよとかの強制を最初から行うものではありません。
「いれて」「いいよ」のやり取りの結果、入れてくれたとしても、仲良しにはなりません。
B子ちゃんが「いれてやらない」というからには根拠があるはずです。
子どもの心を具体的な言葉にして発しながら見守ります。
すると見えてくるものです。
思いもよらない過去の出来事があるのかもしれません。
それは「いれて」「いいよ」の言葉の遊びだけでは、探り出すことはできません。
代弁してくれる大人がそばにいて、自分の主張が通っていくことを認識して初めて、自分を出すことができます自分自身を「表現する」ための手助けが、見守りであり、上記のプロセスというわけです。
これが、心情に寄り添った保育、教育です。
子どもたちは共感してくれる人を探しています。