子ども達が真に自由な心を持った人間に成長していくためには、「自由な教育」だけではできないと考えております。
「自由への教育」とでも申しましょうか、束縛されている心を解放していく過程が必要であると思っております。
自由に、好き勝手に子ども達に何かをさせて、その中からこそ創造性が生まれ、自由な心が育つと考えるのは、全くの幻想であると思います。
子どもはもともと不自由な鎖を、さまざまな形で身につけ、学校にまいります。
「自分で好きな席にすわりなさい」という指示にもとまどうほどに、です。 勉強にいたってはなおさらです。
そうした子どもに一つ一つの力をつけ、生きる力をたくわえ、伸ばしていった時にこそ、子どもの心は解放されはじめ、自由な心を獲得しはじめると考えております。
…と記した著名な教育家がいます。先日、岐阜県で、合わせていただきました。 1997年に最も、トレンディとなるべき人だと信じています。いま、注目を浴びています。
以下に、私の熱い思いを記します。
設定保育と自由保育と言う言葉があります。
これは、幼稚園における保育(授業)の方法に名称を付けたものです。
設定保育とは、「今から◯◯を行う」という意志をもって、クラス全体の構成員を同じ活動に導こうとするもの。日本では、主に私立が行っていると言われているもの。
自由保育というのは、クラス全体が一つのことをするための導きをしないで、興味と関心のあるところから始めてそれを個人の単位ですすめるもの。日本では主に公立が行っていると言われているもの。
「くわな幼稚園は、どちらですか」と、訊ねていただくと、恐らくスタッフは「設定保育です」と答えるでしょう。 しかし、私は、そもそも、設定とか自由とか言う名称が現実に即していないと、思っています。
つまり、「僕はこちらにしよう」と、決めるわけにはいかないことがらだ思います。
つまりつまり、幼稚園で生活をすれば設定の部分もあれば、自由の部分もあるわけで、その真ん中についたてを立てて、あえて分類しようとすることは、あまり意味のないことだと思っています。
なぜなら、保育はいつも「刺激」と「発散」から成り立っていますから。
「刺激」はいいかえれば「インプット」、発散は「アウトプット」です。
「刺激」の活動は、設定を施すと、うまくいく場合が多いです。
「発散」の活動では、たっぷりと与えられた自由な時間が必要です。
幼稚園の活動はこれらの二つを、融合して進められるべきです。
どちらか一つだけでは、バランスのとれた幼児教育は望めないと理解しています。 上記の教育者の言葉はそれをさしているのだと、私達なりに理解しています。
保育時間中にたとえば、メロディオンを先生がとりだして、「ドの音を弾いてみましょう」と、言ったとします。
一番前に座っているA子ちゃんが「ミ」の音を鳴らしていたとします。 そこへ先生が近寄っていって「ドはこっちだよ」と、指を置き換えたとします。
さて、これは、つめこみにつながる、警戒すべきことがらでしょうか。
かねてよりくわな幼稚園が提唱させていただいている「修正しない」教育と照らし合せると、やはり、この修正は、「つめこみ」につながる、危険な行為なのでしょうか。
A子ちゃんは「ミ」がならしたいんだから、ずっと「ミ」でいい、とお考えの向きもあると思います。
A子ちゃんが、いかにも得意になって、音が出ることのよろこびを覚えているときは、そのとおりです。
A子ちゃんは、音を楽しんでいますから、当然、修正すべきときではありません。
しかし、上述の先生が施した行為は、これから、複数のプレーヤーによって、一つの音を奏でていこうとする時の、約束ごとを、お知らせしたのに過ぎません。
お知らせしてもなお、「ミ」をひきつづけるばあいは、そのままにしておくべきでしょう。 それを集中的に幾度となく修正を施そうとすると本人のヤル気が無くなることがあります。
受け入れる姿勢があれば、修正を施してやるのはなんら、悪ではありません。 知らないことは教えてあげます。
このことは、決して、決して創造性を台なしにすることでは、ありません。むしろ逆です。
これらの「お知らせ」の多くを現在くわな幼稚園では「設定」を使って行っています。
その結果、くわな幼稚園の写真特集やくわな幼稚園のホームページで見ていただくような、たてわり保育時の集中力が養われていきます。
奥の深い集中力は、実は正しい知識によって裏打ちが施されているのです。
始めてギターを買ってきたときに、基本をわきまえるために書籍を繙いたり、先生についたりした人は、その後も続いていくはずです(挫折ということもありますが…)。
それにひきかえ、ただ単に、出鱈目を弾き続けていたひとは、まもなく、ギターの面白みを失うでしょう。
少しのコードと、少しの音楽の心得を体得して、ギターのもつ奥行に出会ってさえいれば、きっと、未来があったはずです。
ここの部分の重要性を、数年前から声を大にして、訴えています。
怪物のような集中力は実は少しの「知識」という「背景」から来ているのです。
そしてその「知識」は、少しずつ積み重ねられているのです。
その積み重ねは、最初、「刺激」という一見、受動的な学習から始まって、やがて、「発散」に至る力の助けを得て、さらなる知識を能動的に収集していく、パワーへと成長していくのです。
このパワーのこと昨年、文部省は「生きる力」とよびました。
人間にはガムシャラの時期があります。
新しい知識を獲得してしばらくはガムシャラな時期であるといえるかも知れません。
たとえば、新しいファミコンソフトを手にいれたパパの第一日目はこれにあたります。
ガムシャラな時間は、そのままにしておけば、どんどん前進します。
それを継続的に発展的に捉えていこうとすると、情緒の助けを求めなくてはなりません。
つまり、幸せ感と言えるのかも知れません。
そうしていることが楽しい、充実していると思える心の環境が必要です。
(もし、この充実した感がなくても、ガムシャラに進みうるとすれば、それは、大いなるコンプレックスが作用している可能性があります。たとえば自分が今、措かれている状況からの逃避の願望等)
さて、その心の安定とは、子どもたちの場合はとりもなおさず家庭環境そのものということになります。
家庭の平和ということです。
家が新しいか古いか、貯金があるかないかは、全く関係ありません。
大人が心をどのように「持って」いるかということに尽きます。
ただ世の中には、自分の生まれ育った不幸な家庭環境を、半面教師として捉え、それを活力に転嫁している人々も少なくありません。
従って、必ずしも、平和な家庭に平和な未来が宿るとは言い難いところがなんとも、不思議なこの世の中ですが、基本的には、また、子どもの心という面からしてみるとやはり、平和が子どもたちの「生きる力」を育てると言ってよいと信じます。
半面教師として捉えている人々は、その状況を受けとめる強い心と、固い信念を持って望んでいるということでしょう(このことについては、ひきつづき考察させていただきます)。
上記の類のコンプレックスを糧とするの人々の心の中では、他の人に比べてはるかに強い力で「家庭」を意識しています。
絶ち切ろうと思えば思うほどに、自分の中に、満たされなかった過去が入り込んできます。 人間は本来「家庭」を安全な場所として認識し続けたいものです。
それができなかった過去に向けて人は、怒りを投げかけます。
平和な家庭では、実は子どもたちは一度精神的に親から絶ち切られるのです。
そして自立していくのです。
このあたりが安定した情緒が生きる力を育てると定義した所以です。
寒々とした家庭から、子どもたちは巣立つことができないか、あるいはそうするには大きな力がいるものです。
家庭が温かければ温かいほどに、旅立ちが容易になるという、実は人間とは複雑怪奇な動物なのです。
もし朝の身支度に時間がかかり過ぎるようであれば、曜日や体調と相談のうえ、あまえるチャンスを作ってみるのも、巣立ちへの道のりだと思います。
提案です。
大人の言葉遣いを再確認したいと願っています。
たとえば、こんなふうです。
「おもちゃを片付けないとおやつをあげないよ」
「おもちゃをかたづけたらおやつをたべよう」
いかがですか。
どちらが遣いやすいですか。
どちらを遣い慣れていますか。
平和な言葉は平和な風を呼び込みます。
平和な風は平和な言葉を呼び込みます。
風が吹くかのごとく。
父親が子どもの両手をもち、母親が両足をもって、揺りかごのよう揺る。
慣れてきたら、大きく揺する。
おとうさんのかたぐるま(初詣など)
おみせやさんごっこのお付き合い(正月のひととき)
お子さんが三輪車で、おとうさんが自転車で散歩(お年玉で買い物)
おもちゃうりばで一時間のおつきあい(ママは福袋を買いに)
テレビ番組を一緒に最初から最後まで見る(クリスマスのひととき)
映画館で映画を親子で並んで見る(正月)
そんなこんなことを思っています。
人生なんて絶対に、ゼッタイに順風満帆でなんかありようはずがありません。
一生懸命であるのみですよね。 子育ての時間は限られています。
今できることを、今おこないましょうね。 また、幼稚園でのできごと、ご家庭での出来事でお迷いのことや、ご心配のことがございましたら、どんなことでも結構ですので、メールをください。
私自身がすべての課題に答えられるなんて横柄なことは思っておりません。
訊ねるべき先を探すべく、お手伝い申し上げます。
幸せ…創ろう…。