十年ほど前から(注:1999年から数えて)、「子どもの自由・人権を第一に考えろ」と、学校のあらゆる活動がたたかれはじめました。
「押しつけ・強制はまずい、自由にさせておけば子どもは自然に育つ」という考え方が強まってきました。
文部省(注:当時の)も平成元年からの教育改革のなかで「教授から援助へ。やる気を重視せよ。叱るよりほめよ」と現場を指導しはじめました。
<引用開始>
この十年、学校は全体として、自由・放任の方向に動いている。 生徒の間には、好きなことは何やってもいい、いやなことはやらなくてもいい、という雰囲気が広がっている。生徒は全体的にだらしなくなり、授業も騒がしくなっている。いじめもなかなか抑えがきかなくなった。最近では、校内暴力もふたたびはげしくなりつつある。一方、教師のなかにも、ものわかりのよい教師がふえている。「生徒を抑えるのはまずい。生徒の言い分をよく聞いて納得させることが大切だ。悩みをよく聞いてカウンセリングマインドで生徒に対さなければならない」。
このような考え方が広まっているのだ。反対に、「基礎的学力、生活の仕方、人間関係のつくり方、やっていいことと悪いことなどは生徒がいやがっても押しつけなければならない」という考え方はどんどん後退している。生徒に“やさしい”学校に変わりつつあるのだ。
現在、小学校の崩れが大きい。校内が騒然としているところもふえている。中学校はまだなんとかもっているところも多いが、それは押しつけや強制も必要であると考えて実践している“古い”教師たちの力に負うところが大である。最近になって、社会が“新しい子ども”たちを持てあまし、急に学校に期待を寄せはじめているようだが、この十年の学校たたきのなかで学校はすでに教育の場としての力を失いはじめており、最後の砦にはならなくなっている。
<引用終わり>
(学校崩壊 1999年2月23日第1刷発行 河上亮一著 草思社刊 1500円)
文部省(1999年当時)も最初から、「悪くなれ」と思って、指導をしたわけではないと思います。
なにかが、行き違っていたのでしょう。それが、現在の状況を引き起こしているのでしょう。
なにより、「誉めること」は、子どもにはとても重要で、この機会に、「誉めるな」と、文部省(1999年当時)が言わないことを望みます。 人に物事を伝えるのは難しいですね。
聞く側の価値観で、大きく内容が異なります。
ですから、言葉を発する方はそれを前提に物を言わなければなりません。任期終了間近の青島東京都知事が、言葉を選ぶようになったというのは、従って頷ける思いがします。
たったひとりのたったひとことが、大きな影響力を持っているとすれば、おのずと言葉を選ばなくてはなりません。それを、「迫力がなくなった」と言いきることは出来ないでしょう。一方、石原氏の言動は、今のところ、とても、歯切れがよいですね。一見歯切れのよい言葉は人々を、強いリーダーシップで引っ張っていきそうに見えますが、やはり、それも、言葉の魔術を含んでいることを了解していなくてはなりません。
さて、そんな、難しい言葉の世界で、なおも、言葉があふれ、「自己表現」にこだわり、巷ではインターネットで、ますます発表の場がふえて、「表現力」がそのまま「生きる力」なりと、言い換えられているような幻覚を覚えます。それは、果たして正しいのでしょうか。
物言わぬ表現が、あることを、もう一度認識すべきではないでしょうか。言葉にして、並べておかないと表現ではない、という短絡的な表現は、もしかして、いずれ、人々が修正を試みる対象になりはしないかと、いえ、きっとそうなるだろうと、妙な確信を持っています。
きっと、これが、パワーの向こうにひそむ優しさにつながるのだと、信じています。
引用の同著は面白いです。
現在の日本に大切な問題提起を行なっています。
私たちが行なおうとしている(行なっている)教育と通じるところもあります。
つまり、基本的な生活の習慣や、規律は、子どもたちに大きい顔をして伝えるべきだし、そこで、「子どもの自主性」とやらに、言葉を置き換えた、一種の幻想をおいかけるために、使われているいささか、迷いっぱなしの創造力を育てようと企てるよりも、いいことはいい、悪いことは悪いと、強く伝えることが必要です。そのようにしたところで、創造力そのものには、いかほどの悪影響も与えないことを、いや、とんでもなく、そのしつけ的な行為が力の発揮には必要不可欠であることを、認識すべきです。「価値観が違うから、おしつけになるのではないかしら」と思って、指導を強化できない人がいるとすれば、それは誤りです。価値観はかわります。動いている価値観の瞬間と瞬間の間をつかまえて、それを、自分の価値観とするのが、人間です。
自分で打ちだした価値観は、かならずや、人のそれとは異なるでしょう。それは、大前提です。人と異なることを恐れてはなりません。これだけ、個性が、個性がと言いながら、いまだにまだ、大きく人との違いを恐れる風潮があります。やはり、人間は群れたがっているのでしょうか。
傷口を舐めあっているうちは、本当の意味での国家の自立は、出来ないと思うのですが…。 流行ではない教育を続けることは決して、楽ではありませんね。好きなときに好きなことを好きなだけするのがいいのですよとだけ唱えて、幼児教育を展開していれば、そんなに吹く風に逆らわなくてもいいようなものなのですけれど、時代が思う教育の流れと、我々が思う教育の流れとが、食い違うのはいつものこと…。これも、修業なり…。努力あるのみ…です。