断捨離
断捨離という言葉があります。
究極まで部屋のものをなくして、テーブルひとつで生活してみる、という考えもあります。
逆に、必要以上に片づけない、という考えもあります。
今日の生活の延長としての明日があり、繋がっていて初めて成立する、という考えもあります。
どちらも真実
どちらも真実です。
どちらを、自分の思いで「価値」とするかによります。
大切なことは、その考えは自分の考えであって、他から譲渡できるものではなく、また他人に譲渡できるものでもない、ということです。
体験を語る
三十数年前のとある日のひまわり会委員会で一人のお母様が、議題の途中で突然立ち上がって、
「うちの子どもは、神経質で、爪を噛んでいて、細かなことに気を取られて、外に出るのもはばかり始めて」
と説明を開始されました。
「その後、片付けないことを選んだら、子どもが穏やかに過ごせるようになった」
という体験談でした。
逆に
逆に、散らかりっぱなしの部屋をそのままにしていたら、だんだんと生活習慣が乱れてきて、引き込みになってしまった、という話もあり得ることです。
考えるとわかる
つまり、いつどこで誰が何を片付けるか、片づけないかは、都度、毎日、家庭によって、人によって異なります。
そのタイミングがわかるのは当事者だけです。
当事者がそのタイミングを分かろうとするためには、いつも日常について考え続ける癖を持っていることが大切です。その癖は、一朝一夕には身に付かず、試行錯誤を何日間何ヶ月間何年間と続ける必要があるかもしれません。
今、目の前で幼児期という時間を送る子どもたちも、この力<考える力>が必要です。疑問を持ち続けるということでもあります。それを安易な結論と結び付けてしまうと「極端」というサイドに走ります。ステレオタイプと呼ばれるものです。この極端から距離を置いて、自分にとっての価値観を見出しながら歩むこと、これは考える力のなせる業です。
決断と悶々
その結果として、ここぞというときには、ガツンと強い決断と決意を実行します。実行力は、普段の考える癖から導かれます。
そして、そのようにできる場合は限られます。そうでありたいと願い続けて悶々とすることのほうが多いかもしれません。
その悶々そのものが人の営みです。
そしてさらに、多くの場合、自分の考えを執行しないで我慢することがある、という行動とともに、社会生活は進みます。
「あっちへ行ったり、こっちへ来たり」すなわち、これがが日常ですね。
Vol. 36 No.61 10/31/2017
「考える」の一歩は「考える癖」から
記録
- 2017年10月31日
- 加筆、訂正
- 2017年10月31日
- 記述