過去とは肯定されるべく存在しているのですね。 人間はじつに弱い生き物で、ともすると、本能に任せていきているライオンやトラよりはるかに弱くて、ナイーブです。 人間は、現状を受け入れるのが恐ろしくて、過去を恨んでみたりするものです。 たとえば、こんな貧乏な家に生まれないで、あちらの大きなお屋敷の子どもだったらどんなに幸せだったろう、などと、おそらく、幼いときには一度は思ったご経験がおありになるのではないでしょうか(いや、失礼があったらお許しください)。 あるいは、今の旦那と一緒にならないで、あちらの旦那と一緒になっておけば、どんなに幸せだったことか、などと…。 そこまで、いかなくとも、「ないものがほしくなる」ということは、ありますよね。 そう、過去に向かっての「ないものねだり」です。 一生をずっと、ないものねだりですごすと、実はとてもやり切れない人生になってしまいます。 自分の過去が邪魔をします。
自分の過去に存在する全ての事象を認めて、引き受ける時、活力ある明日がやって来ます。 過去をイヤなものと思っている以上、困難に感謝ができません。 よくぞこんな困難に出会わさせていただけた、と思えるのは、過去を引き受け、未来に向かって元気よく、歩いている人だけです。 この人のなかでは「試練」が「パワー」に昇華しています。 この間、ニュースステーションに、ヤワラチャンこと田村亮子さんがでておられました。 その中で、「神様は、試練が乗りこえられる人に、試練をお与えになる」と先輩が投げかけてくれた言葉を再生しておられました。 幼いころから天才と呼ばれたヤワラチャンには、おそらく計り知れないプレッシャーがかかっているものと思われます。 それをばねにして自分の人生を生きていくことは、並大抵の精神力ではないでしょう。 それでも「次回は金メダルです」と言いきることのできる精神力…それは、すでにある種の超越したなにかを持ち合わせてはじめて言える言葉だと思われます。 そして、それは世間に対して言っている言葉ではなくて、疑う予知なく、「自分」に言っている言葉です。 「自分」の存在を丸ごと飲み込んで、認め、その存在を客観的に見ながら自分自身にビジョンを投げかけることができるのでしょう。 自分を丸ごと飲み込んで、自分を認めるための第一歩…それは、「過去を肯定する」ことではないでしょうか。
今、自分の目の前にいる子どもたちに、100パーセントの確信をもって、幸せを保証することはできません。 あるときは自分で身を滅ぼすかもしれませんし、あるときは世間の都合で幸せを放棄せざるをえないかも知れません。 しかし何がおきても、どんな状況が来ても、「肯定できる過去」のために、今を一生懸命に生きることを、ともに学ばせてやりたいと願います。
念の為に、最後にひとつ…もし、自分のなかに「肯定できない過去」を見つけたら、その瞬間にその過去はすでに自分自身に寄り添っています。 糧となってくれています。 この時、感謝の気持を持つことが、つまり「過去の肯定」なのです。 そんなふうに思うことができるようになればなるほどに、子どもたちのために、家族のために、周りの人々のために、「小便に血が混じるほどに(松下幸之助氏の言葉)」心配をし、汗を流すことに、「ありがたい」と思うことができると確信します。